本当の問題はここだと思う

セクシー田中さん(1) (フラワーコミックスα)

先月末に起こった痛ましい出来事についていろいろな意見が出されている。

wedge.ismedia.jp

私から見ると抜けている視点があるように思うのだが、これが本当にわかってないのか、同じ業界人を守るために批判をしないのか、よりセンセーショナルな記事にしたいので取り上げないのかはわからない。また私は原作もドラマも見ていないので「一般論としてはそうだが、今回のケースには当てはまらない」という点があったらご容赦願いたい。

映像作品が良ければ文句は出ない

中には原作をいっさい変えてはならん!という原作原理主義者はいると思うが、その意見は無視して良い。ドラマが気に入らないのに毎週欠かさず視聴してはヤフコメに批判を書く暇人なので気にしなくていい。ドラマや映画が面白ければ、満足度が高ければ原作が好きな人でも「結末が原作と違うがこれもアリ」とか「タイトル以外は原作と全然違うけど、これはこれで面白かった」という感想を持つものだ。

原作は伊坂幸太郎の短編。映画は7割から8割が原作には無いオリジナルストーリーだが、その追加した部分にも一見無駄に見える会話、伏線とサプライズがてんこ盛りの伊坂幸太郎テイスト。原作は正義の味方の話だが、映画はさらに進んで正義の味方が連鎖する話。この映画を見て「勝手に追加するな」と怒る原作ファンはいないはず。

これも原作は伊坂幸太郎。映画の感想で書いたがもう全然違う。ここまで変わっていたら「原作と違う」と文句を言うファンはいないはず。それでもところどころ原作を踏襲している部分があって、それが逆に面白い。原作を変えてはいけないのではなくて、オリジナルの展開がつまらなすぎると「原作のとおりで良かったのになぜ悪い方向に変えた」ってことになるんだよ。つまりプロデューサーや脚本家の力量が低すぎるのだ。

原作者側の代表は出版社

今回の件は出版社側のミスまたは力不足だと私は思う。テレビ局側からドラマ化の話があったらまずはテレビ局のプロデューサーと出版社で話し合うはず。そこでシリーズ構成が提示され、または話し合われて原作のどこからどこまでを全10回に納めるか、そのために必要ならば原作のどこを改変するかが決まる。すべてプロデューサーにお任せというパターンもあるかもしれない。その過程で出版社と原作者の話し合いが持たれ、あまりにも原作者の意向に合わなければドラマ化は白紙になるケースもあるはず。仮に原作者がプロデューサーや脚本家と直接に話し合うことがあったとしても主体は出版社。原作者には権限がないという意味ではなくて、出版社が責任を持って原作者の代理を勤めなければならないのだ。どうせやっつけ仕事のテレビドラマなので脚本ができあがるのは撮影の直前なのだろう。原作者が脚本や放送されたドラマを見て「なんじゃこりゃ」となったとき、原作者が文句を言う相手はプロデューサーではなくて出版社。なぜなら原作者は原作のとおりにドラマを作って欲しいと思うのは当然。だがそれでは全10話に収まらない、どうしてもプッシュしたい俳優が演じている役の比重を上げたいなど事情はいろいろあるだろう。そのとき原作者の意向を尊重するだけでなく、「先生、ここは原作どおりでは無理です。妥協をしましょう」とか「原作とは変わりますが、この流れも悪く無いと思います」と原作者を説得するのも出版社の仕事である。出版社の知らないところで原作者がポストして、それを脚本家が応酬することがあったら、原作者を守るために原作者をたしなめたり脚本家に抗議をするのも出版社の仕事である。なぜ出版社はそこまでやらなければならないのか。原作者によってもたらされる利益をもっとも多く手にしているのは原作者本人ではなく出版社だからである。金の卵を産む鶏を雑に扱う飼い主がいようか。ただし、今回の件で出版社は完璧に対応をしていた。それを無にするほどテレビ局がひどかったのが真相なのかもしれないが、それは私が知る由も無い。ご冥福をお祈りする。