「死にたいなら一人で死ぬべき」という非難は控えてほしいという非難は控えてほしい

最近、話題になっている記事があるよね。

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「そのとおり」という賛同者、「それを被害者の前で言えるのか」という反対者。結びの部分だけ引用する。

類似の事件をこれ以上発生させないためにも、困っていたり、辛いことがあれば、社会は手を差し伸べるし、何かしらできることはあるというメッセージの必要性を痛感している。
「死にたいなら人を巻き込まずに自分だけで死ぬべき」「死ぬなら迷惑かけずに死ね」というメッセージを受け取った犯人と同様の想いを持つ人物は、これらの言葉から何を受け取るだろうか。
やはり社会は何もしてくれないし、自分を責め続けるだけなのだろう、という想いを募らせるかもしれない。その主張がいかに理不尽で一方的な理由であれ、そう思ってしまう人々の一部が凶行に及ぶことを阻止しなければならない。そのためにも、社会はあなたを大事にしているし、何かができるかもしれない。社会はあなたの命を軽視していないし、死んでほしいと思っている人間など1人もいない、という強いメッセージを発していくべき時だと思う。
人間は原則として、自分が大事にされていなければ、他者を大事に思いやることはできない。
社会全体でこれ以上、凶行が繰り返されないように、他者への言葉の発信や想いの伝え方に注意をいただきたい。

 みなさんはどう思いましたか? 私は筆者のメッセージはすれ違いの議論を生んでしまう、非常に拙い文章だと思った。

第1段階 もう死にたい

第2段階 よし死のう

第3段階 どうせ死ぬなら誰でもいいから巻き添えにしよう

 筆者は凶行に至るこの3つの段階を混同している。第1段階の「もう死にたい」と思ったことは誰でも一度ならずあるのではないだろうか。それでもいまこの文章を読んでいるのは死ななかったからだ。そういう私も死にたいと思ったことはある。それでもいまこの文章を書いているのは死ななかったからだ。まわりの人間が、あるいは社会の仕組みが手を差し伸べられるのは第1段階、タイミングが良ければ第2段階の人に対してだ。引用部分の「社会はあなたの命を軽視していないし、死んでほしいと思っている人間など1人もいない、という強いメッセージを発していくべき時だと思う」は、まさに第1段階の人に対するメッセージ。対して「死にたいなら一人で死ね」は第3段階まで行った人に対するメッセージというか怒りというか祈り。もちろん「死にたいなら一人で死ね」と言われると「おう、おまえらがそこまで言うなら誰かを巻き添えにしてやる。ざまあみろ。オレはもう死ぬから怖いものなんかないんだぞ」という人はいる。そういう狂った人に対しては「死にたいなら一人で死ね」は火に油を注ぐことになる。だが筆者はそういう狂人に対する見解を避けている。もし「死にたいなら一人で死ね」が良くないなら、ニュースで遺族や友人の悲しみを報道するのも良くない。犯行現場に見ず知らずの人が花を添えている映像も止めたほうが良い。狂人の思うつぼではないか。

整理すると、「死にたいなら一人で死ね」と言っても第3段階の凶行は止められない。かといってそう言わなかったとしても凶行は止められない。ただ、「死にたいなら一人で死ね」の方が被害者や友人家族の気持ちに寄り添っていると私は思うのだがどうだろう。そして第1段階から第2段階に移行させないようにすること、第2段階の人が自分自身か他人を傷つける前に思いとどまらせること。地域社会がほとんど崩壊してしまっている都会では難しい。対処療法ではあるのだが、高校を気持ちよく卒業すること、30才になるまでに経済的に自立していること。これはまだできそうな気がする。