日本人と擬人化

日曜日に無事に使命を果たして燃え尽きた「はやぶさ」。この筋書きのないドラマに感銘を受けた人の手による擬人化イラストがいろいろある。過去にも紹介したが「おつかいできた*1」、「はやぶさたん*2」あと生還を記念してフィギュアも発売されるそうである*3。こういうのを見て、けしからんと眉をひそめる大人たちや、気持ち悪いと言う女性はいるかもしれない。ではこんなのはどうだろう*4。このあたりになると「かわいいね」とか「おもしろいね」と言ってもらえるのではないか。このイラストはJAXA宇宙航空研究開発機構)のホームページにある「今週のはやぶさ君」にあるイラスト、つまり本家本元による擬人化である。あと一昨日のコメント欄で紹介したこの写真*5。いまさら宇宙から撮影した地球のモノクロ写真などめずらしくもなんともないが、カプセルを射出した後に大気圏で燃え尽きてしまうはやぶさに「最後に地球を見せてやろう」と機体を反転させて地球の方を向かせて撮影した写真である。はやぶさをもっとも擬人化していたのはJAXAの技術者なのかもしれない。この「擬人化」、日本人は大好きである。もちろんミッキーマウスやプーさんなど動物の擬人化は海外にもある。だが、無生物までやたら擬人化する民族はめずらしいのではないか。
自動車工場などに産業ロボットが導入されだしたころ、日本の工場では作業員が1台1台に名前を付けたり、女の子と決められたロボットにはリボンが付けられたりした。ところがキリスト教文化圏ではロボットとは魂の無い、むしろ怖いものというイメージがあったらしい。これは鉄腕アトムのおかげだ、ロボットは人間の友だちというメッセージを日本国民は受けていたからだという説があった。もちろん手塚先生の功績を否定するつもりはない。だが、この擬人化という指向性は、もっと日本人の心の奥深く、いわば日本人の宗教観に結びついたものだというのが私の説だ。
いまやエコロジストの間では世界共通語にさえなっている「MOTTAINAI(もったいない)」。我々が「もったいない」と言う、言わないまでも心に思うとき、我々の心にはなにが去来しているであろうか。冷蔵庫に入れておいた食品がうっかり賞味期限が過ぎてしまって、あるいは腐ったりしなびてしまって捨てる。引き出しやタンスの奥から何かが出てきたが、どう考えてももう使わないので捨てる。そのときの「もったいない」は「いかん、貴重な資源を無駄にしてしまった」とか「むやみにゴミを増やしてしまった」という理性から発せされた言葉だろうか。むしろ「食物としての使命を果たさないまま寿命を尽きさせてしまってすまない」とか「まだ道具としての命があるのに破棄をすることによってその命を絶ってしまって申し訳ない」という罪悪感がわずかでもないだろうか。
元来、日本人は物にも魂を感じてきた。物を大事に使うと心が通じ合うと、過去に1度も通じたことなどなかったとしても、心のどこかで、いわば理性の外で信じてきた。私がこんなことを書くと笑う人でも、職人さんが言えば「うんうん」とうなずくだろう。わざわざ「擬人化」などというタームを持ち出さなくても、日本人は無生物にも魂と人格を与えて暮らしているのだと思う。私がこのブログでたびたび主張している「エコなんか嫌いだ」は、局所最適化に熱中するばかり、大局的に見ると無駄を垂れ流している似非エコロジストが許せないのだ。そんなエコロジストに、太古から養ってきた森羅万象に神を感じ自然とともに生きてきた日本人の心である「もったいない」を軽々しく使って欲しくない、まさにおまえらにはMOTTAINAIと思うのだ。ああ、充血した目が痛い