マーズ...植木等が逝ってしまった...

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私がまだ20代の頃である。友人に誘われて植木等の映画5本立てオールナイト上映を浅草に観に行った。なにしろオールナイトの映画に行くこと自体が初めてである。しかも場所は浅草。きっと観客はまばらで一夜の宿がわりの人ばかりなのだろうと思っていた。映画館は東宝の封切り映画を上映するところなのでかなりでかい。中に入って驚いた。客席の3分の2は埋まっている。この時間帯にしたら満員と言って良い。客も若者ばかり。なんなのだこいつらは。1本目の映画が始まる。オープニングで「主演 植木等」がクレジットされると場内からは割れんばかりの拍手と歓声。誰だ、おまえらは誰だ。最後に監督の名前が出ると、ここでも歓声と拍手。そうなのだ、ここにいるのは全員が植木等ファン。当時はDVDなど無く、ビデオレコーダーを持っている人さえ少なかった。いまのパソコンくらいの値段なのだ。植木等の映画を心ゆくまで堪能するには他に方法がないのだ。
同行の士ばかりなのでノリも良い。一人で見たならニヤっとするくらいの場面でも大声をあげての高笑い。こちらも観客の反応が楽しくて声を出して笑ってしまう。ギャグシーンの前振りが始まると、つぎに来る場面を予想してクスクス笑いがあちこちで漏れてくる。なんて楽しいんだ。映画を観るとはこういうことだったのか。当時はビートたけしタモリの前世時、笑いの主流がブラックに傾倒してきたころである。世相を皮肉る笑いに食傷してきたころだけに、植木等のシンプルな笑いがたまらなく新鮮だった。
このオールナイトの5本立ては毎月一回催されていた。彼の出演映画がいかに多いかの証である。それから毎月観に行った。朝までには腹が減るのがわかったので、翌月は松屋のデパ地下で食料を仕入れて行く。仲間もだんだん増えて、数ヶ月後は6人くらいの団体になっていたように思う。いつも最後の1本は寝てしまったのも、いまとなっては懐かしい思い出だ。
植木等。コメディーができて、演技ができて、歌もダンスも上手。だが、甲高い声で大笑いする彼の笑い顔の奥にはいつもニヒルで冷めた素顔があった。バラエティ番組の盛り上げ役だけで食いつなぎ、楽屋ネタ以外に視聴者を笑わせる術を持たないいまのコメディアンには望む術もない、真の喜劇人の覚悟と生き様が彼にはあった。ありがとう、植木等。僕はあなたのような父親が欲しかった。けれども、あなたのような父親にはなれなかった。