なぜ人を殺してはいけないのか?(中編)

さて、きょうは中級編だ。じつはこの中級編はもともと私が内田先生の著作に啓示を受けた部分なので、昨日のコメント欄に書いてある著書のまんま。ただ私なりの補足をしてある。

  【中級編】なぜ勉強をしなければいけないのですか?

ドラマ「女王の教室」で、真矢先生がこの質問に答えている。

  「勉強はするものではありません。したいと思うものです」

  「立派な大人になるために勉強をするのです」

勉強全般について言えばそれなりに説得力がある言説かもしれない。だが、この勉強をもっと細分化して「英語と数学が必要なのはわかります。でも、なぜ音楽を勉強するのですか?」と聞かれると「立派な大人になるため」がちょっと怪しくなる。かと言って、竹を割るようにスカッとした回答が思いつかない。もう初級編でわかったと思うが、この問いは答えようがないのだ。なぜなら、勉強をするのは子どもの義務ではなくて権利だからだ。昼飯や饅頭と同じ。誰も子どもに強要していない。なのでこの質問自体が無意味なのだ。
そう書くと反論が出るだろう。これがお料理教室ならわかる。自分で月謝を払って教室に通っているのだから、料理を習う理由がわからなくなったら辞めればよい。ただし払い込んだ月謝は返さないよと。また高校や大学なら同じ理由で「勉強する理由や目的が自分で見いだせないなら退学して働きなよ」と言えばよい。だが小中学校ではどうなのだ? 義務教育なのだから、勉強することは子どもの義務ではないのかと。よって、この問いに答えられなくてはならないではないだろうか?
義務教育の「義務」とは、子どもに対して勉強することを義務として課しているのではない。子どもを学校に行かせることを親に課しているのだ。義務教育とは教育を受ける義務ではなく、教育を受けさせる義務なのである。そして、子どもには教育を受ける権利を与えているのが義務教育だ。もともとは産業革命のころのイギリス。子どもは安い労働力として重宝された。だがそれではいけない。子どもに対する愛と慈悲のため、明日の国家を担う国民を育成するため、子どもは働かせないで学校に行かせなさい。それが義務教育の精神なのである。親には子どもに教育を受けさせる義務、国家には子どもが教育を受けられる環境を用意する義務、そして子どもには教育を受ける権利を与えている。それでも子どもが教育を受ける権利を放棄するなら、それはそれでしかたない。よって、この中級編の回答は

  勉強はしなければいけないわけではないよ。

  君がイヤだったら勉強をする必要はない。

  だから勉強したい子の邪魔にならないように図書館か校庭に行っていてね。

これが正しい答えである。このように義務教育の精神を親、子ども、行政が正しく理解すれば学級崩壊など起こらない。いつも教室には勉強したい子が10人くらい残り濃密な授業をしている。あとの子は校庭や屋上で遊んでいる。うーん、これでいいような悪いような。
(つづく)