なぜ人を殺してはいけないのか?(前編)

この質問が有名になったのは、例の酒鬼薔薇事件の後に開かれたNHKの討論会である高校生がこの質問を発し、そこにいた文化人は誰も明確に答えられなかったからだ。こんな質問にも答えられないのかと批判的な論調が続いたが、では読者のみなさんは答えられるだろうか? 「人として絶対にやってはいけないことだ」「みんなが殺し合ったら社会が成り立たなくなる」「戦争なら殺してもいいのでTPOを指定しなければ答えられない」などなど。どれもすっきりした回答になってないのはおわかりだろう。この問い、哲学の入門書や応用倫理学の本に例題としてよく出てくる。最近、読んだ上の本にも出てきたが、どれも私自身は納得できなかった。そもそも、この「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問いそのものになにか不安定さが内在しているように思えてならない。「なぜ空は青いのか?」「どうやって赤ちゃんが生まれるのか?」に比べると、「なぜ人を殺してはいけないのか?」は問いとしてまちがっているような気がしてならない。まちがっているという意味は、「人として問うてはならないほど自明なことだ」という倫理的なまちがいではない。文法的には疑問文、質問だが、論理的に質問になってはいないのではないだろうか。2÷0の答えを言えないように、この問いは答えようがない問いなのではないか。だがそれはなぜか?
ヒントを与えてくれたのは私が好きな内田樹先生だった。

  「子どもに『なぜ人を殺してはいけないのか?』と聞かれたら絶句するのが正しい」

  「その子どもの首を絞めて『もう一度いまの質問をしてみろ』と聞いてみよう」

書名が忘れたがそんなことが書いてあった。同じ本に

  「子どもに『なぜ勉強をしなければいけないのか?』と聞かれたら

   『勉強をするのは子どもの義務ではなく権利だから、したくなかったらしないでよい』

   と答えるのが正しい」

これだ! 私は目からウロコが落ちて、ついでに放屁と脱糞をした。私の夏休みはまだなんだけど、夏の自由研究としてこの問題について考えたので書いてみるよ。

  【初級編1】なぜ会社の机でタバコを吸ってはいけないのか?

これは簡単に答えられるね。受動喫煙などと難しいことを持ち出す必要はない。だいたいガンのメカニズムさえわかってないのに、受動喫煙による肺がんのリスクなど定説がないだろう。机でタバコをすって、自分の領域で簡潔するならよい。チョコレートを食べる、おにぎりを食べる、コーヒーを飲む。これは机の上だけで完結する。だがタバコを吸うと、煙が自分の領域をはみ出し隣の席、さらにはその隣や向かいの席にまで行く。だからダメなのだ。同じ理屈で、机の上に七輪を置いてサンマを焼くのもダメだ。またあまり臭いの強い物を食べるのもダメだろう。また、音や見た目にインパクトがありすぎるのも会社の机で行なうのに向いてない。鶏を絞め殺して羽根をむしってそのまま食う。これは受動喫煙のリスクはないが迷惑だ。それではこの質問はどうだろう。12時になったので昼飯に行く。そのときAくんを誘ったらこんな質問をされたとする。

  【初級編2】なぜ昼飯に行かなければいけないんですか?

どうだ、答えられるか? 別の質問を考える。出張先でおみやげを買ってきたのでAくんにもあげた。すると

  【初級編3】なぜ饅頭を食べなければいけないんですか?

この2と3には答えられないだろう。「行きなくなかったらいいよ」「食べたくないから返して」くらいしか言えないだろう。1は喫煙者に対して義務として課せられていること、強要されていることだ。この質問には答えられる。だが2と3は強要はしてない、「もしよかったら」の前提でこちらが言ったことに対して、さも強要したかのように、義務を課せられたかのように質問をすることがまちがいなのだ。この状況では質問の2と3は誤りであり、質問が誤っているので答えることができない。ここから発展して中級編、そして上級編である「なぜ人を殺してはいけないのか?」まで展開しようと思うのだが、ゲームをやらなければいけないのでつづきはまた明日。なぜゲームをやらなければいけないんですか?
(つづく)