なぜ人を殺してはいけないのか?(後編)

ここまでの要点。

  ・権利に関することを義務であるかのようにその理由を聞かれても答えられない

  ・ある人には義務であることが、別のある人には権利となって生じることがある

さて、これをもとにして「なぜ人を殺してはいけないのか?」を考えよう。どう考えてもこれは義務だ。それなのになぜこれほど答えにくい問いなのだろう。密室に私ともう一人、仮にAがいるとする。私はAを殺してはいけない義務を負っている。ところがAも私を殺してはいけない義務を負っている。すると「Aが負っている私を殺してはいけない義務」は、そのまま「私はAに殺されない権利」となっている。これはAが私を殺さない義務を持つことによって私に生じる権利である。同じくAを殺さないことを私が義務と認識することによりAには私に殺されない権利が生じる。
ここまでの反論。私がAを殺さないことは、Aが私を殺さない交換条件のように書かれているが、人を殺さないことは交換条件ではなく、人間が犯してはならない絶対的な禁止事項なのではないか。倫理や宗教ではそうだろう。だが、この質問者は「なぜ人を殺してはいけないのか?」と聞いているのでそうは思ってないのである。すると彼に説明するには倫理観や宗教を持ち出しても無駄である。
話を元に戻す。では私とAが、実は難破船の生き残り、無人島に流されてもう2週間も何も食べてない二人だったらどうか? 生き延びるには相手を殺して食べなければならない。または私とAは交戦中の国に属する兵士でそれぞれが敵。ばったり会ってしまった。この場合、私はAを殺さないことを義務と思わない。むしろ自分が生きるためにはAを殺さなければならない。それを相手に悟られればAも私を殺そうとするので、私はAに殺されない権利を放棄したことになる。
つまり、「人を殺してはいけない」という義務を集団の全員が負うことによって、「人に殺されない」という権利が全員に与えられることになる。義務教育では義務は親、権利は子どもだったが、この例では私が義務と権利を同時に持つことになる。よって「なぜ私は他人を殺してはいけないのか?」という義務に関する問いは、「なぜ私は他人に殺されずに生き長らえることができるのか?」という権利に関する問いと等価になる。そこでこの権利がセットになっている限りは義務に関する質問にも答えることができないのである。よって

  なぜ人を殺してはいけないのか? → 人は誰からも殺されずに生きる権利があるから

  なぜ人は誰からも殺されずに生きる権利があるのか? → 人を殺さない義務を誰もが持っているから

と義務と権利で堂々巡りになってしまう。この質問者が権利に関する部分の意見を表明してくれればこの質問は簡単に答えることができる。

  私は誰にも殺されたくないし、殴られるのさえイヤだ。そんな私はなぜ人を殺してはいけないのか?

    → おまえが殺されたくないように、他人も殺されたくない

  私は生きている資格がないし、生きる希望もない。そんな私なら人を殺していいよね?

    → おまえ以外の全員は生きる資格があると思っているし、生き続けたい

だが、生意気なガキにこの質問をされたら計3回に渡ったこの説明を聞かせる気力はない。やはり内田先生が書いているとおり、ガキの首を絞めて自分の権利に関する意見を表明させよう。「ヤメテ!」と言ったら「ほら、おまえが死にたくないように他人も死にたくないのだ」と言えばよい。そのまま死んでくれたら回答をする手間が省ける。