偽善は人間の本能である。または天国への階段について

なにかで読んだが、他己的な行動、つまり他人を助けたり手伝ったりすると脳内麻薬物質が分泌され気持ちが良くなるそうだ。そうなると、善行(道徳心や倫理観による善い行ない)と偽善(打算による善い行ない)には実際のところ区別なんか無くて、どちらも快楽を得たいための人間の本能ということになる。なので「これは偽善なのではないか? 善いことをしている自分が好きなだけではないか?」などと気にすることはない。食う、眠る、おしっこをするのと同じように人間は他人を助けるようにできているのだ。その行動の動機とか理由なんか気にしないで、どんどん他人に力を貸して快楽を求めよう。人間がそのようにできていることが神の意志なのであれば、偽善でも徳を積んだことになり天国への階段を一歩、登ることになるのではないのか。

昨日、国道14号わきの歩道を歩いていたら、自動車が停まっていて「ギュルル、ギュルル」と音が聞こえる。駐車場に停めている間にバッテリーが上がっちゃってエンジンがかからない経験はある。だが道の真ん中でエンジンが止まり動けない車って初めて見たよ。国道14号線って、東京と千葉を結ぶ幹線道路でありながら市川と幕張の間は片側一車線というクソのような道路なのだ。よって前の車が停まっていると追い越せない。車内から爺さんが出てきて車を押そうとしている。歩道を歩いていた私はその車を追い越しながら「ホラー映画ではよくあるよなー、やっとキーを見つけて車に乗り込んだのにエンジンがかからなくてゾンビや殺人鬼が車に迫ってくるやつー ...って手伝えよ、オレ!」、回れ右をして道を戻り車の後ろに着いた。

「僕が押しますからハンドルを切って歩道に寄せてください」。爺さんが車に乗り込み私が後ろから押す。そもそも私の力で自動車が動くのか? 動くんだよ。普通車ならこんなに簡単に動くのか。ところが爺さんはハンドルを切らないので車が歩道に寄らない。ただ前に進んでいるだけ。これは困った。かといって私が運転席に座り、爺さんに後ろから押させるのも気が引ける。「ハンドルを左に回して~」と騒いでいたら歩道を歩いていた青年が手伝いますと私の横に付いてくれた。ありがたい。力が倍になることより、一人だと恥ずかしかったのだ。道路の反対側を歩いていたのか、反対側の店の人かはわからないが道路を渡って若夫婦も加わった。なんだ、この連帯は。日本もまだまだ捨てたもんじゃないぞ。

旦那が爺さんを降ろし、運転席に座った。ああ、これで大丈夫。車が半分、歩道に乗り上げたところで移動終了。旦那が「ラジエーターから水が漏れているのでしょう。ボンネットから煙が出てますよ」と。ボンネットから上がる煙だか湯気って、これも映画やテレビでしか見たことない。ボンネットをあけて「ほら、ここから漏れてますね。この蓋を取って水を入れれば家に帰るまでは走れるのですが」、旦那は詳しいな。私が「でも老人ですからね。JAFを呼びましょう」、旦那が「そうですね」。私が爺さんに「JAFを呼んでください」「え?」「JAFです。ジェーエーエフ、自動車なんとか協会」。奥さんが車内に入って会員証を探してくれて爺さんが電話をかけた。私が「じゃあ、もうだいじょうぶですね。解散しましょう」と手伝ってくれた3人に。若い女性ならJAFが来るまで待っていてあげるのだが、爺さんだからあとはいいだろう。そもそもラジエーターから水が漏れるって、定期点検はしているのかよ。

これで、この4人は天国への階段を一歩上がった。それにしても我々4人はこの車がどうなろうと関係ないんだよね。後ろの車の運転手、おまえが車を歩道に寄せて手伝うのが筋じゃねえのか。この車がどかないと自分が進めない、いわばステークホルダーだろうがよ。地獄に落ちるがよい。