スーパーマンネタのついでに思いついたことを書いておく。アメリカ映画には、というよりアメリカ人には根強いマッチョ信仰があるようだ。向こうのヒーローはおしなべてマッチョである。では、チャーリースエンシェルやトゥームレイターはどうなのだと疑問を持つ人もいるだろうが、これもマッチョの変形だ。彼女たちは男性に身体と身体の肉弾戦を挑むではないか。セーラームーンの戦い方と比べてみるがいい。
では日本のヒーローストーリーはどうかというと、マッチョはむしろ敵役である。故・梶原一輝が好んで使った設定が
・主人公の前にマッチョの敵が現われる
・主人公は持ち前の技術と技でマッチョをやっつける
・その敵は主人公の仲間、もっといえば手下になる
主人公とは星飛雄馬や矢吹丈であり、敵は伴忠太や西である。実はこの設定は梶原一輝が考えたというより牛若丸と弁慶の関係を見れば日本人のDNAに刷り込まれているのではと思いさえする。つまりアメリカ*1ではヒーローとは腕力があり肉体的に強い人。日本のヒーローは腕力の無さを技術*2で補いマッチョと対等に戦える人のことである。日本ではマッチョが悪役であるように、アメリカでは腕力がないのに武器や知略で主人公と対立するのは小賢しい悪役なのである。この点で、アンパンマンとバイキンマンの関係はむしろアメリカ的だと言える。
この違いが生じた理由は何なのか。西部開拓時代、そこからさかのぼれば血を血で争うヨーロッパの戦乱の歴史、あるいは肉食人種の民族性。これらから生まれるマッチョ信仰。対する日本人は狭くけっして肥沃ではなかった土地に住む農耕民族であること。台風や地震など人知を超えた圧倒的な力に対する畏怖。伝統的な手工業の歴史。勤勉な民族性。これは日本特有のものなのか、欧米とアジアの差なのか。興味が尽きないテーマであるが、私のブログで取り上げるには真面目すぎる内容である。
日本におけるヒーロー像が腕力に頼らない存在であるならば
非力なヒーロー→中性的なヒーロー→美少女戦士