クロスファイア「ヒーローになることの必然性」(前編)

今から4年前のことである。たまたまテレビを付けたらこの映画をやっていた。原作は読んだことがあるが好きな作品ではなかったので、何の期待もしないで、たまたま暇だったからテレビを見た。「おもしろい...」最後は泣けた。テレビドラマをほとんど見ない私は、この映画で矢田亜希子を初めて知った。彼女のどこか影の薄い部分が、主人公・青木淳子の薄倖なイメージにピッタリ。その映画がデビューだったのが長澤まさみであるが、今日はその話ではない。このクロスファイアーの小説と映画の比較から、一般人がヒーローになることの意味を考えてみたい。主人公が女性だからヒーローではなくてヒロインではないかと言われそうだが、ここでの「ヒーロー」は特撮映画における「正義の味方」と同義語の狭義の意味でのヒーローである。
この小説は宮部みゆきの原作で、会社では目立たないOLとしてひっそりと暮らす主人公は生まれながら高熱の炎を出現させる能力を持っている。この能力はスティーブン・キングの中期の名作「ファイアー・スターター」と同じ。原作者もこちらの小説は意識していることを自ら述べている。キングの小説は超能力の軍事利用のために幼い少女の主人公を捕らえようとする組織から父親と一緒にひたすら逃げる話だ。宮部みゆきの小説は、たまに近所の悪い奴を燃やしに行く。中盤からこれまた悪の組織に関わり、最後は殺されてしまうというなんとも悲しい話だ。私がこの小説を好きでないと言った理由が、主人公の立場とか意志が非常に中途半端なのだ。だが、現実にそのような超能力を持った人がいたら、この主人公のような行動なのだと思う。実際に人は自ら進んでヒーローになるものではない。そこのリアリティを追求したのがこの小説なのだと思う。
(つづく)