情熱と信仰

ジョン・アーヴィングの名作「ガーブの世界」のエピローグにこんなくだりがある。小説家の父親が死んだ後、娘は長い旅に出る*1。本屋に立ち寄っては父親の本を注文する。当然のことながら取りに来ないので、本はそのまま棚に並べられる*2。書店に本が並んでいる限り、父は存在しつづける、と小説は結ばれる。
アイドルとかスターとかカリスマと呼ばれる人たちは天上で光を放つ人だ。その光が強ければ強いほど影は濃い。その影はファンだ。ファンはただスターの方を見さえすればいい。そして、それぞれのファンがCDを買うなり、ライブに行くなり、映画に行きさえすればスターはスターとして存在し続ける。ところが宗教はこういうわけにはいかない。もちろん、信者がそれぞれの信仰に基づいて、その宗教の教義なり習慣に則って神を信じ続けるのが宗教だが、スターと違って神は信者の心の中にしか存在しない。イスラム教や日本の神道においては根本的に実態がないわけだ。すると個人個人の信仰だけ千年以上、神を存続させるのは難しい。信者を増やすとか、信者を維持する、または信仰の助けになるような装置なりイベントが必要なわけだ。これらをまとめて「活動」と呼ぼう。
話を整理する。偶像自身が活動をしている芸能では、ファンは能動的に活動をしなくとも、スターはその実態を保ち、存在を続けることができる。ところが偶像自身が実態として存在しない宗教においては、布教者または信者が活動をすることによってのみ偶像はその実態を維持することができる。そんなことを昨日の私のブログに寄せられたLeo16さんのコメントを見て考えた。
たとえ弓原七海のライブでも、妖精さんの舞台でも、そこに沢井美優を通じて知り合った仲間として参加している限り、沢井美優は確かに存在しているのである。そして姿を見ることができない沢井美優だからこそ、沢井美優がこの地上に確かに存在する証として、沢井党は今日も活動を続けるのである*3

*1:10年くらい前に読んだのでうろ覚え。突っ込みはやめてね

*2:米国の本屋は版元から買い取りなので返本ができないのだ

*3:それは悲しすぎるだろ、ヲイ!