被害者の物語

先に今日の主題を言っておこう。

   被害者のいないところにヒーローなし

正しいヒーロー物の文法は

   (1) 被害者の平和で幸福な日常が描かれる

   (2) 悪の出現

   (3) 被害者の日常が破られる*1

   (4) ヒーローが悪を倒す

   (5) 被害者に日常が戻る

である。文法(1)と(3)の落差が大きければ大きいほど視聴者のストレスは大きい。そしてストレスが大きければ大きいほど文法(4)のカタルシスが大きい。アニメ版セーラームーンもこの文法に沿っていた。ところが実写版では被害者が明示的に語られた回は

     act 1  なる、なるママ(渡辺典子!)

     act 2  アルトゼミナールの講師(浜千咲登場)

     act 4  誕生日のお嬢様(美人!)

     act 6  うさぎの級友(バスケの回です)

     act 8  うさぎの級友(ナコナココンテスト)

     act10  エリカちゃん(座布団に寝かされました)

     act16  なる(「亜美ちゃんは満点を狙いすぎ」北川景子熱演)

     act17  神父(みーなすぱわー)

     act21  亜美(ダークパワーメイカップ)

     act30  美奈子および級友(ムーンの活躍で未遂に終わる)

     act41  なる、元基(なるに怪我をさせたのはプリムーン)

     act42  なる(またプリムーンが無茶します)

     act46  元基(「ぼくは愛野美奈子が好きだよ」アルテミス)

全49話中、たったこれだけ。残りは逃げまどう名も無き群衆である。しかも上の13話の被害者は身内を除くとわずか4人。4人といっても塾の講師、お嬢様は文法(5)が無い。妖魔の被害にあってかわいそうと感情移入ができたのはエリカちゃんと神父だけではないだろうか。*2そう、実写版美少女戦士セーラームーンは被害者不在の物語なのだ。
明示的な被害者がいなければ妖魔を倒した後のカタルシスも得られない。それならなぜ番組が成立するのか。物語のカタルシスが別のところにあり、悪を倒すことは目的ではなく、そこに到達するための手段だからだ。もう一度、例にあげた13話を見よう。各回のテーマである。

     act 1  うさぎが戦士として使命感を持つこと

     act 2  亜美がうさぎに心を開くこと

     act 4  レイが仲間になること

     act 6  まことが立ち直ること

     act 8  レイとまことが和解すること

     act10  【正統】妖魔を倒しエリカちゃんを救うこと

     act16  亜美が他人との正しい人間関係を構築できること

     act17  ヴィーナスが正体をばらすこと

     act21  亜美にまことが振り回されること

     act30  素の美奈子がうさぎのピンチを救うこと

     act41  正体をバラすこと。まことと元基が接近すること

     act42  【正統】妖魔を倒してなるを元に戻すこと(失敗)

     act46  美奈子が前世の呪縛から解放されること

妖魔を倒す必然性があったのはact10と42の2話だけで、あとは妖魔がいなくても物語が成立するのだ。残りの11話にとって妖魔との戦いは、上に書いた目的を達成するための手段またはその過程に現われた障害に過ぎない。このあたりが私が実写版にハマった理由である。*3

*1:怪我、気絶、監禁、近親者の死亡、悪に変えられるなど

*2:神父は無理だろう

*3:ハマった...ハマ...浜...浜千咲...浜千咲は引退なのか?