三谷幸喜vsウルトラマン

ちょっと前の話だが、三谷幸喜さんが新聞の連載にウルトラマンジードのことを書いていた。全文は「三谷幸喜 ウルトラマン」で検索すると画像がたくさん出てくるのでそちらを参照されたい。だがこんなにアップされているということはこの記事を読んで「そのとおり! 俺もそう思う」と同意する人が多かったのだと思う。少しだけ抜粋する。3才のお子さんと毎日1本ずつウルトラマンジードを見ているという話で

  「ジード」はリクとジードの成長の物語だ。ただただ怪獣退治に明け暮れていたかってのマンやセブンと

  大きく違う点はここにある。もちろん彼らも様々な悩みを抱えていたけれどハヤタ隊員やモロボシダンは

  既に成人であり、リクのような精神的もろさは感じられなかった。朝倉リクはとにかく悩む。

  自分は何のために戦うのか。自分が守るべきものとは何か。

従来の地球防衛軍の一員がウルトラマンになるストーリー。主人公はもともと地球を守るために戦っているので、ウルトラマンが憑依することでより強大な力を手に入れることができたわけだ。よって迷いがない。ところがジードは普通の青年(と自分では思っていた生まれながらのウルトラマン)と、仕事も家族もあるサラリーマンのレイトがウルトラマンになる。リクは「よし、これでボクもドンシャインみたいなヒーローになれた」とノリは軽いが地球のため、人類のためと志は大きく戦っている。だがサラリーマンのレイトの方はそこまで思い切れない。なんで自分が?という思いを引きずっている。

     

     ライハ「あなたはウルトラマンの力でなにがしたいの?」

ここ、前半の名シーンだが、ここでレイトは答える−「家族を守りたい」。人類まで対象を広げないで家族と家族が暮らすこの街を守りたいという、ヒーローとしてはある意味、矮小化された動機にすることでリアリティが増している。ジードの物語は全編を通して「運命」と「覚悟」という2つのキーワードがたびたび登場する。なりたくてウルトラマンになったわけじゃない。だがなってしまったものは、もう自分の運命として受け入れるしかない。そしてその運命という偶然を受け入れて最善を尽くす覚悟をするしかない。これってヒーローだけでなく学校や職場でもたびたび遭遇することだよね。自分がそれをやる義務はないし適任者かどうかもわからない。でも誰かがやらなければいけないならオレがやるという覚悟。頭の中で宇宙戦艦ヤマトの2番の歌詞「誰かがそれをやらねばならぬ」が駆け巡る瞬間だよ。三谷さんの記事を続ける。

  かってのウルトラシリーズでは、ヒーローはラスト五分間だけ登場した。彼らはヒーローではあったが

  物語の主人公ではなかった。そもそも彼らはほとんど喋らなかった。(中略)それが近年のシリーズでは

  会話しまくっている。ゼロの決め台詞は「オレに○○するなんて二万年早いぜ」。

  彼らは言葉を与えられることによって個性が強調され、より人間的になった。

とくにジードは朝倉リクそのものだし、レイトも変身すると人格が交代し歴代のウルトラマンではもっともおしゃべりなゼロになる。このあたりは私と同じ感想だが、つぎはなるほどと思った。

  よく悩み、よく喋るようになったウルトラヒーローたちが怪獣と必死に戦っている姿を見ていると、

  もはや身長五十メートルである必要性がほとんどないようにも思えるが、それは言わないようにしよう。

たしかに、ほとんど人間なので等身大のパワードスーツでも物語は成立してしまうね。でもそれをやると仮面ライダーと差別化ができないから。三谷幸喜さん、ウルトラマンの脚本を書いてくれないかなあ