山本弘「アイの物語」

「少林少女」も「僕の彼女はサイボーグ」も、柴咲コウはかっこよかったし綾瀬はるかはかわいかったので私は満足したが、作品としてはかんじんの脚本がダメダメだ。よくこんな脚本で関係者はゴーサインを出したな。これを許してしまうところに日本映画界のかかえる病巣があるように思う。これに比べたら「Special Act」なんかよくできたストーリーだったよ。よい作品を世に出そうという高い志と、観る人に楽しんでもらおうとする謙虚さがある。だが、前述の2作品の脚本は「まあ、こんなもんでいいんじゃない?」という怠惰と、「俺様が書いたのよ。なんか文句ある?」という傲慢さしか感じられない。とくにサイボーグの方は、あの展開なら彼女がアンドロイドである必要はまったくない。特殊能力を持った力持ちの外国人でも不都合はないのだ。そんなことを思ったのが、同じくアンドロイドを扱ったこの小説が頭にあったからだ。
ほんと、この中の「詩音が来た日」を綾瀬はるか主演で映画化したらどんなに素晴らしい作品になることだろう。どうせアンドロイドだから安座間美優小松彩夏でもOKだ。いやむしろ彼女たちの主演作品を撮るならこれしかない*1。どういう話かというと、近未来、自分で判断し行動できるアンドロイドが実用化されている。人手不足でキツイ職場である介護の現場にアンドロイドを使おうとするのだが、どうにも老人に不評だ。それならプログラムは最小限にして、人間の介護士に指導をしてもらいながらアンドロイド自身の学習機能で一人前にしようということになり、若い女性に模したアンドロイドが多額の寄付との交換条件で病院に送り込まれる。指導係になった女性はいい迷惑だし、人間らしい感情も持ってないので老人の評判も悪い。このロボット介護士が1年間の修行を経て病院を巣立っていくまでの物語なんだけど、私は国産SFの一つの到達点をこの作品に見た。
人間に比べて不完全な生命体であるロボット。だが、この不完全さはロボットの完全さから来るというパラドクス。ついつい正しくない行動をしてしまう人間の悲しみと、正しい行動しかできないロボットの哀しみがこの作品には描かれている。そして、ロボットと人間の違う部分やロボットに欠けている部分を通して、逆に心とはなにか、アイデンティティとはなにか、死ぬとはどういうことかを問うている。といっても小難しい講釈があるわけではなく、登場人物の日常風景やいろいろな出来事を通して、読者は否応なしにこれらの問題を考えさせられる。
1年後、すっかりこの病院に馴染んで老人の人気者になったアンドロイドだが、メーカーが回収に来て惜しまれながら去っていく。1年間の学習成果の詰まったメモリをコピーして量産体制に入り、このメーカーは世界を席巻するロボットメーカーになる。数十年後、老人になった主人公の元に市から介護用のアンドロイドが届く。この後に素敵なオチが待っているんだけど、それは自分で読んでくれ

*1:ヲイ!