「ストロベリーナイト」(前編)

今回のお話しのコアの部分、つまりこの本の感想はわずか5行ほどなのだが、そこをわかってもらうにはその前提となる事象を説明しておかなければならない。それには50行くらい必要だ。
ちょうど10年前の2月、長野オリンピックの閉会式の翌日のことである。突然、上司に呼び出された私は、そこで札幌への転勤を命じられた。私は会社員になってから一度も転勤をしたことがない。ましてや大阪には長期出張で2か月ほどいたことがあるが、北の方には旅行も含めてほとんど行ったことがない。そもそも当時、営業部門にいなかった私は転勤とは縁がない人間だと思ってた。まさに青天の霹靂。心の整理が付かなかった。席に戻って「ちょっと出てくるよ」と部下に言って会社の近くの公園に行きベンチに座り頭をかかえこんだ。栄転は栄転なのだが、札幌とは、北海道とは。転勤後の自分の姿を想像することができなかった。そもそも、あんな寒くて雪ばっかり降ってる土地に住めるのは、そこで生まれ育った特殊な人だけなんじゃないか。仕事の不安だけでなく生活の不安がある。4月から3年生になる娘も転校させなければならない。
私が生まれて育ったのは東京の下町。クラスのほとんどが自営業。小学生のときなんか、父親がサラリーマンの家に遊びに行くと、家に仕事場が無く父親がいないのに驚く。「おまえんち、どうやって生計を立ててんの」と聞いてしまうくらい下町なのだ。だから転校で出ていく子もいなければ、入ってくる子もいない。そういう子どもにとって、ドラマで見る父親の転勤−自分の転校は恐怖だった。ひとりっ子の娘が転校なんかに堪えられるのか。
とりあえず女房に電話をする。「オレさ、転勤になっちゃったよ。札幌。うん...でさ、考えて欲しいんだよ。オレが一人で行くか、みんなで行くか。それとも会社を辞めて、いままでどおり今の家で春からも住むか。うん...オレはどれでもいい」。その日は残業をしないで帰宅する。一つ前の駅で降りて、家までの道を歩きながら母親に電話をする。その前年に父親が他界し、母は一人で住んでいる。「ああ、オレ。うん、元気だよ。あのさ、転勤になっちゃったんだ。遠いんだよ、すごく。札幌なんだ。うん...だいじょうぶ。やれるって。心配しないで...うん、また電話する」
家に帰る。ドアを開けると、女房と子どもがすぐに玄関に来るかと思ったら静まりかえっている。二人で泣いているのか。いやな予感がして廊下に上がって奥に行く。女房と子どもで何かの本を見ている。

  女房「ほらほら、バスで30分で温泉だって!」

  娘 「ねえねえ、パパ。いつ引っ越すの、早く行こうよ!」

買ってきたガイドブックを見て盛り上がりが最高潮の女房と娘。おまえらはそんなに楽しみなのか。転勤だぞ、引っ越しだぞ
(つづく)