11月に読んだ本

     

鵜頭川村事件

鵜頭川村事件

横溝正史みたいな話なのかと思ったら全然違った。1週間続く雨で土砂崩れが起こり孤立してしまった山間の村。雨が降り止む気配がなく食料が乏しくなってくる。水面下で対立していた二つの勢力の争いが顕在化し、食べ物を売る売らないの争いが起こる。殺人事件をきっかけに一人の青年が自警団を作るが、その青年がどんどん組織を大きくし暴力組織となっていく...彼が参考にしたのが昔の学生運動の記録。どうやって扇動をすれば人を動かせるか。扇動は洗脳に代わり暴力と無縁だった少年や青年は簡単に破壊活動に殉じていく。韓国やフランスのデモこそ正しい民主主義の姿だと言う人もいるが私はそうは思わない。むしろ民主主義が暴力に敗北した姿ではなかろうか。


     

山田風太郎の連作短編集。老刑事が主人公で一見簡単な事件に見えてあとから真相が明らかになる。そのとき共感すべきなのは被害者ではなく犯人の方である悲しい真実が明らかになる。そしてどの話も最後は主人公のこのセリフで終わる。「それでも私は君に手錠をかけなければならない」。トリック的なものや物語のツイスト感は現在の作品に比べると劣るのだが、文章の格調の高さが至高の読書体験。


     

この手の本を何冊も読んだが、これがベスト。著者は「日本語文法はこうだが、学校文法ではこうなっている」と我々が学校で習った文法は日本語の文法では無いと断罪する。主語を表す助詞の「は」と「が」の違いはこの本の説明がいちばん腹おちした。そもそも日本語に主語という概念はないのだけどね。ちょっとここだけ抜粋をしておくと「解説」と「主題」という概念を取り入れる。

  解説  父親が台所で炒飯を作った

「解説」は事実を述べているだけで話者の気持ちは入っていない。それを入れるのが「主題」で助詞は「は」を用いる。

  主題=父親  父親は→(父親が)台所で炒飯を作った

  主題=台所  台所では→父親が(台所で)炒飯を作った

  主題=炒飯  炒飯は→父親が台所で(炒飯を)作った

英文法に似せて作った学校文法だと「主語が『父親』、述語は『作った』、目的語は『炒飯』、主語を表す助詞は『は』か『が』」だと上の3つの文は説明ができない。あと、長くなるので興味がある方はこの本を買って読んで欲しいが「ら抜き言葉」なんかも我々は動詞の変化の流れの中にいて、正しい表現だと思っている「書ける」、「読める」はすでに「ら」が抜けている。「書かれる」、「読まれる」が元の姿だが、日本語は可能形と受身形が同じなので、可能形の方は「ら抜き言葉」になる傾向があり、一足先に「書ける」、「読める」になったと。


     

ポストカプセル

ポストカプセル

タイトルはタイムカプセルのようにある場所に投函すると15年後に配達される。だが頼みもしないのに送った手紙が15年後に配達され人生が狂った人々の連作短編集。そして最終章でタイムカプセルの謎が明らかになる。まあまあ面白かったのだが設定にかなりの無理矢理感があるかなあ。


     

破壊――新旧激突時代を生き抜く生存戦略

破壊――新旧激突時代を生き抜く生存戦略

タイトルは新旧企業の激突により古いルールや価値観が破壊されること。あまりまとまりの無い本だったが気軽に読めて面白かった。本の紹介に「グーグル、ソフトバンクツイッター、LINEなど、外資系企業の手先として日本市場の攻略を中心的に担った戦略のプロが、不可逆な未来を生き抜くための生存戦略を初めて明かす1冊」とあるが、ソフトバンク外資系企業じゃねえだろ。