安座間美優「世界制覇への道」−漢館を買ってみた(最終回)

ここまで12回分、でも誌面ではたった4分の1。これだけでブログを一つ立てられるくらいのボリウムと突っ込み所。「エピちゃんと一緒にサファリパークへLet's go!」がはるか昔のことのような気がするよ。実際、11月だったけど。
さて、このサファリパークや1ヶ月の着回し特集などは顕著なのだが、漢館を読んでみるとファッションのカタログ誌、情報誌とは別の側面が見え隠れする。ある種の懐かしさ、昔こういうノリの雑誌を見たことがある。

  平凡と明星

だ。この2誌が担っていた役割は、いまはどこに行ったのだろうと常々思っていたが、ある部分をファッション誌が吸収しているような気がする。
スターが不在と言われて久しい。紅白の視聴率は下がり、ミリオンセラーは出にくくなり、映画の観客動員数は下がるばかり。だが、スターが不在なのではない。スターが細分化されたのだと思う。山口百恵を考えても、歌も歌うし映画やテレビドラマにも出るしバラエティもやれば本も出す。そして平凡や明星のような芸能誌には彼女の私生活さえ芸能活動の一環として公開された。私は彼女が特別に偉大だったとは思わない。そういう時代だったし、当時の芸能人は程度の差こそあれ、みんなそうだったのだ。小売業の頂点に西武や伊勢丹が君臨していた時代だったのである。いまは言うなれば専門店の時代である。ブランドショップにも行けばダイソーにも行く。山口百恵が担っていた役割が多くの歌手と俳優に細分化されているわけだ。だからガッキーが曲を出して武道館でコンサートをやったのを見て何か奇異な感じがしたが、人気俳優が歌を歌うのなど当時はあたりまえ。稼げる内になんでもやるのだ。
呑乃を読んだときはそれほど感じなかったが、この漢館はエピちゃんに限らず専属モデルに対して、この雑誌の外の世界の評価以上に一人一人のスター性がアピールされているように思う。ファッション誌に興味の無い人にはエピちゃん以外はまったく無名であってもである。だから誌面の厚さに対して専属モデルの数が少ない。一人一人が繰り返し繰り返し登場し、名前がでかい活字で紹介され、ファッションリーダーであることが力説される。平凡や明星は、誌面の外の世界で歌なりドラマなりで名が出た人を取り上げ、その人の情報を余すところ無く読者に伝えたわけだが、漢館は自ら誌面の中だけのスターを作り上げ、「ちょっと待って、俺この人なんか知らないよ」という疑問を許さない。
私は漢館を批判しているのではないよ。まったく逆だ。

  安座間美優はなんて素敵な雑誌の専属モデルになったのだ

もう冗談抜きにして、やった、これで野望に一歩、いや数百歩近づいた。2月号のレポはどうする?