予告編を考える

昨日ちょっと書いた「ナーメテーター」。映画だと仮に配給側が隠そうとしても主演俳優と5行くらいの紹介文だけで、このカテゴリに属する作品であることがわかってしまう。予告編を見ればそれは確信に変わる。なので観客もそれを期待してその作品を見るわけで、けっしてサプライズにはならないのだよね。ジェイソン・ステイサム主演で紹介文の1行目で彼が普通の人の役だったら間違いなくナーメテーターでしょ。

それでナーメテーターについて考えていたら、伊坂幸太郎の小説って半分近くとまでは言わないが、かなりの作品がナーメテーターだと気づいた。殺人マシンではなく、クライマックスで主人公を助けてくれる実は凄腕の知り合い。隣の家のオヤジだったり、自分の奥さんとその母親だったり、死んだ彼女が救った子どもの親だったり。これが終盤まで隠されているのでクライマックスのサプライズとして効果的に使われている。それはファンの人ならみんな知っているので書くまでもないことだが、私が思ったのが映画の予告編と小説の紹介文では情報量に圧倒的な差があるという点だ。もちろん映画はストーリーがすべてではなく、仮に内容がわかっていてもそれがどう映像化されているかの興味だったり、自分が好きな俳優を見たかったりで映画を見るモチベーションはそれほど減らない。だが、それにしてもだ。映画の予告編に比べて、小説のあらすじは情報量が少なすぎないだろうか。私の場合は「本の雑誌」を購読しているので、一流のライターが「購入意欲はマックス・ネタバレはミニマム」になるような紹介をしている。だがこんな雑誌を読む人はそもそも5行の紹介文だけで本を買う人。「王様のブランチ」で紹介されると本が売れると聞いたことがあるが、あのくらいの内容でもっとたくさんの本を紹介する手段を出版社側も用意するべきだと思う。現代人は本を読まないと嘆く前にもっとすることがあるのではないかな。