震災記念堂に行ってきた

私が生まれて育った家から歩いて5分、交通量の多い蔵前橋通りを突っ切ることができれば1分のところにある震災記念堂(現・東京都慰霊堂、それがあるのは横網町公園)に行ってきた。子どものころの遊び場、ここで自転車を練習して、夏にはラジオ体操と盆踊り、私の心の原風景だ。私の生家も引っ越してしまったので40年以上も行ってなくて死ぬ前にもう一度見てみたいとずっと思ってた。やっと涼しくなったので行ってきたよ。

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JR総武線両国駅から北に10分くらいのところにある。入口から銀杏並木があって中央の広場に通じる。久しぶりに行ったら、この並木道ってこんなに短かったっけ?と思った。子どものころの印象ってそんなもんだな。

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写真の左上にいちいち指が写ってるじゃないか、どんだけ下手だよ。ここが広場。以前は木立の向こうに高い建物はなかったなあ。当然、スカイツリーも。この公園の中に慰霊堂がある。大正時代の関東大震災は、建物の下敷きになる人より火事の被害のが大きかった。ごちゃごちゃしている下町、家屋は木造、ガスもなかったころの正午前の大地震なので、またたく間に町が火の海になった。みんながここに避難したんだが、まわりを火で囲まれほぼ全員が焼死(蒸し焼きか?)して大変な被害になった。東京全体で身元不明者の遺体が58,000あり、それを納める礼堂として震災記念堂が作られた。この話を子どものころから家庭や学校で聞かされたので地震は本当に怖いんだよ。やっと復興したと思ったら東京大空襲で再び焼け野原になり合わせて16万のご遺骨が安置されているそうだ。

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子どものころ大人たちは「震災記念堂」と呼んでたので私も自然とそう覚えたが記念っておかしいよね。もともとの日本語では「記念」はセレブレーションの意味だけでなく、悪いことも忘れないようにしましょうという意味だったのかもしれん。その慰霊堂の内部。子どものころはこんなに明るくなくて、奥にいる人の顔が見えないくらい暗かった。右側の壁には関東大震災時の様子を描いた絵画が掛かっている。それが暗闇からぼうっと浮かび上がってそれはそれは怖かった。いちばん怖かった絵がこれ。

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映画の「キリングフィールド」みたいだが、家族全員が焼死したら誰も引き取り手がないよね。左側の壁は東京大空襲時の写真がかかっている。これもモノクロで負けずに怖かったよ。公園の別の一角には復興記念館という2階立ての博物館みたいなのがある。写真や学術的な展示のほかに、焼け跡から出てきた服とかメガネ、ひん曲がった自転車、救助隊が使ったヘルメットやガスマスクが展示してあって、子どものころはけっこう怖かった。ここも慰霊堂と同じように明るくなってホラー感は薄れたが、

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石造りの階段や廊下は当時のままで、いまはここがいちばん怖い。入場無料、復興記念館は月曜日が定休日だ。