沈黙を操りバカを隠す編集者の力

一時期、この人の本をずいぶん読んだんだよね。

街場の現代思想 (文春文庫)

街場の現代思想 (文春文庫)

  • 作者:内田 樹
  • 発売日: 2008/04/10
  • メディア: 文庫
 

 でも最近は

 なんでそうなっちゃうかなあ。あと、まだ序章しか読んでないけど

武器としての「資本論」

武器としての「資本論」

 

 この人のツイート、削除されているので参照できないけど安倍元首相の労をねぎらった松任谷由実さんに

荒井由実のまま夭折すべきだったね
本当に、醜態をさらすより、早く死んだほうがいいと思いますよ。ご本人の名誉のために

以前に立派な著作を出している先生たちが、なぜ政治の話になるとアホになるんだろうと記事を書いたことがあった。そのときは、政治とは妥協の科学である。Aという主張と、それに相反するBという主張。どちらが正しいかを追求するのが科学や哲学であるのに対し、両方の意見を聞き、吟味をして両者の妥協点を探すのが政治ではないだろうかと書いた。それにしてもBに対して死ねというのは科学でも哲学でもないけど。

この私の疑問に答える面白い記事があった。もちろん、これが唯一の真実だとは思ってないよ。

blogos.com

「冷凍庫に入ってみた」など不道徳な行いをする人びとのみならず、これまで「博学多才」なイメージを持たれていたような立場の人びと――たとえば学者、政治家、文化人、弁護士、医者など――にも「バカ発見器」のサーチ能力が及ぶようになった。一般的には「エリート」「インテリ」と呼ばれていた人でさえ、ツイッター上では愚にもつかない不規則発言を弄してしまう場面を、私たちはたびたび目撃するようになったのだ。

そうそう、私の疑問そのもの。これに対する筆者の答えが

こうした現象が示唆するのは「バカ発見器」であるツイッターが、「いままで賢いとされていた人びとが実はバカだったことを白日の下に晒した」ということではない。そうではなくて、「これまで賢いと評されていた人びとの持つ『賢さ』がいったいなにによって作り出されていたのかを逆説的に示した」のだと言えるだろう。

もうバカって言い切っちゃってんじゃん。ではなぜその人たちが賢く見えていたかというと

では、いままで「賢い」「インテリ」などと評されてきた人が、そもそもなぜそのような評価を得ていたのか――それはひとえに「編集」の力があったからだ。
なんらかの専門的知識によって賢いと評価されていた人が、専門外の分野でしばしば愚かな言動を発してしまうのを、SNSが普及する以前の時代では「編集」という行為が不可視化していた。出版社やマスメディアには「編集」という行程に携わる編集者というプロフェッショナルがいた。
そのおかげで「賢い」「インテリ」とされていた人びとは幸運にも、「この人は賢いことしか言わない人だ」という読者や世間からの印象形成に成功していたのだ。

つまり、もともと専門外ではバカだった。ただ、おバカな発現や言説を削除していた編集者がいた。あとはわかるね。これがツイッターやネットの記事だと編集者がいないのでバカ丸出しになってしまうと。

つねづね賢いとされてきた人びとでさえ、専門外の話題や、あるいは「無編集」の言明では、とてもではないが賢人とは評価し難い言動をしばしば見せていたのである。ツイッターで可視化される「無編集の知識人」の姿には――編集者たちの存在の重要性が逆説的に浮き彫りになっていると同時に――失望や落胆の色が隠せない人も少なくない。
長年憧れてきたあの人が、ツイッターでは事実無根のデマに踊らされたり、最悪の場合はデマやフェイクニュースを垂れ流す当事者になっていたりする。書籍や雑誌では理路整然と語るあの人が、ツイッターでは感情剥き出しの論理性の欠片もない主張を延々と繰り返している――そうした、ある種の「幻滅」に出くわす場面は、われらが愛すべき「バカ発見器」のせいで日常茶飯事となった。
「バカ発見器」ことツイッターによってあえなく「発見されたバカ」になってしまった有識者や知識人たちは、自分はバカではないということを示そうとして、さらに「無編集」の発言を繰り返して恥を上塗り、事態を収拾させるどころかさらに悪化させてしまうこともよくある光景となっている。

もう容赦がない、容赦がなさ過ぎて上の二人の先生が気の毒になってくる。だが結論の部分は非常に示唆に富んでいる。

編集者はなぜ「賢い人」の「賢さ」を作りだせていたのか――それは彼らの編集によって「沈黙」を操ることができていたからだ。
「賢い人」の出力したテキストのなかに、読み手に「はぁ? なにを言っているんだ。バカかコイツは?」と思われそうな部分があったら、それをまるごと削除し「沈黙」に変えてしまう。そのような愚かな部分をなにか別のことばであえて言い繕うのではなく、なにも語っていないことにしてしまう。なにを語っているかではなく、なにも語っていない空白部にこそ、賢者が賢者として評価される大きな所以があったのだ。
(中略)
SNSが当たり前のインフラとして普及した現代社会では、「なにを語るか」ではなく「なにを語らないか」こそが、自分の日常を、ひいては自分自身をつくっていくことになる。

ネットで誰でも簡単に全世界に向けて発信できる時代だからこそ、もう使い古されてボロボロになった言葉ではあるが「沈黙は金」をもう一度、見直そうと。拙者も肝に銘じます...