それは表現の問題ではないし芸術でもない

みなさんは名古屋の「表現の不自由展」、どう思いましたか? 私の感想はこうだ。津田は「姑息」、行政側は「浅はか」。広辞苑によると表現とは「内面的・精神的・主体的なものを、外面的・感性的形象として表すこと」、つまり表現で自己完結しているわけではなくて、表現しようとしている実態がある。それは物や景色だったり、思想やイメージだったり。それらをひっくるめて仮にボディとしようか。ボディの見せ方は千差万別、その見せ方に作者の思想やメッセージが入ってくる。以前に女性器のリアルな3次元モデルを展示して捕まった作家がいたが、あれは表現の問題だね。AVにモザイクがかかるのと同じでそのものズバリはいけないこととなっている。ではもっと抽象度が高くディフォルメしたものを展示したら、たぶんOKだと思う。では、それに同じくディフォルメした男性器を抜き差ししたらわいせつ物と見なされるかもしれない。これは行為も含めてボディになるわけだ。そこで今回の展示会だが、天皇陛下の写真を焼く、この場合のボディは写真だけでなく「写真を焼く」という行為。焼くのは表現ではなく、ボディに含まれる。ではそれは天皇に対するタブーを訴えているのか? それも違う。人の写真を焼いて見せるのは自分以外はNG、それが社会通念になっている。これは政治問題でも皇室問題でも表現の問題でもないのだ。

もう一つの少女像。意見はいろいろあるだろうが、これはただの少女像ではない。もっと言えば慰安婦を表しているのでもない。残念ながら確立されてしまった反日の記号なのである。非常口についている緑色の走る人と同じで表現ではないのだ。ほかにどんな作品があったのかは知らないが、この2つに限っていえば「表現の不自由」ではなく、他人の写真を焼くという行為、嘘で塗り固められた反日プロパガンタという思想に嫌悪感を示す人が多いのであって、表現とかましてや芸術の文脈で語られることではないのだ。「アベ○ネ!」と書かれたプラカードと同じ。これが表現か? これが芸術か?

だが展示した方はそんなことは百も承知。これで騒ぎになれば大成功。脅迫するものが出てくれば「表現の自由が侵されている」と展示を引っ込めることによって完璧な勝利を得るわけだ。それを姑息と私は言っている。津田のすることなんかみんなが無視するか、あくまでも言論でこき下ろせばいいのに、脅迫をするから相手の思うつぼになった。それに加担した行政も悪い。なぜ許可をした? それでも許可をしたのなら引っ込めるな! この続きは隣国でやってくれ。おまけで津田と鳩山のパネルディスカッションをやれば向こうの人は大喜びだ。