正しく悲しむということ

一昨年の大晦日に他界した母親の仏壇が兄の家にある。ずっと気になっていたが昨日やっと兄の家に行って手を合わせることができたよ。廊下に倒れている母親を見た瞬間から、悲しみよりもこれからしなければならないことで頭がいっぱいになった。救急車を呼ばなきゃ、でも変死扱いで警察も来るよな、葬儀屋を呼ばないと、でも正月に来てくれるのか、死亡届ってどうやって出すんだ、電気・ガス・水道を止めないと、銀行や保険は、納骨はいつできるんだ、とか考えること、やらなければならないことが山ほどあった。半年かかって全部の手続きを終わらせて、遺産を分配して、納骨をしたら、母親が死んでからまだ一度も泣いてないのに気がついた。泣いたかどうかより、正しく悲しんでない。

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映画のレビューでも書いたがホテルのビデオで見たこのドラマ。「男は泣くもんじゃない」と厳しい父親に育てられた遠藤憲一は悲しいテレビや映画を観ても泣いたことがない。そんな自分は異常なのではと気にしている。父親はずっと前に死んでいて残った母親も死んだ。そのときも泣けなかった。葬式の帰り*1、二人の姉といっしょに実家に帰る。姉が「お母さん、スパゲッティをよく作ってくれたよね」と同じ作り方でパスタではないスパゲッティ*2を作ってみんなで食べる。母親が作ったのと同じ味のスパゲッティを食べたら遠藤憲一が号泣する。泣いてはいけないという理性の壁に阻まれていた悲しみが、味覚という横穴から抜けてきたんだな。号泣する弟を変にも思わないで優しく見守る姉たちも良かった。私の場合はなんだろうな。母親が作ってくれたのと同じ味の餃子を食べたら号泣するかもしれないな。でもこのドラマの遠藤憲一ほど泣いちゃうんだったら、どこでその味の餃子に出会うかわからないので、かなりの地雷かもしれない。

*1:うろ覚えなので母親は数年前に死んでいて法事の帰りだったかもしれない

*2:味付けはケチャップだけ