一神教と「天」

一神教の誕生-ユダヤ教からキリスト教へ (講談社現代新書)

 西欧社会やアラブは一神教だとか、日本人の神と一神教の神は違うとか、日本人に一神教は理解できないとか言うでしょ。ここから先は、専門家でもないし、ちゃんと勉強したわけでもない私が適当に書いた駄文なので突っ込みどころ満載だと思う。ユダヤ教の神、つまり「GOD」とイスラム教の神、つまりアラーは同じで、ユダヤ教イスラム教は同じ神を信仰していると何かで読んだ。これはどういうことなんだと私なりに考えたのだが、人間が生きていく上で、人間の存在を超えた何かを感じる。あるいはそういう存在がいて欲しいと思う。そのイメージなのか願望なのかはわからないが、それを人々が語り合うようになる。その結果、それまで個人個人のイメージだったものが言葉の力で、たしかな存在として肉付けられ、ときには再定義されたのが神ではないかと。なので、そこには解釈の違いがあるだけで存在はただ一つ。

対して東洋は多神教と言われる。言われるって実際にそうで、日本には「やおろずの神」。やおろずって八百万だからね。だが昨年、ずっと見ていた「西郷どん」でこんなシーンがあった。

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西郷隆盛がモットーとした「敬天愛人」、天を敬い人を愛する。この「天」だ。天の助け、天の配剤、天罰覿面、天の定め、天は二物を与えず、天網恢々疎にして漏らさず。この「天」って、一神教の「GOD」と同じイメージではないだろうか。GODはわからないが、日本の天は西郷隆盛の「敬天」が示すとおり、人が道理や道徳を敬い尊ぶ気持ちの裏返し。「天」に対する人間側のアンサーが「公」とも言って良いように思う。具体的な信仰の対象として八百万の神を持ちながら、人が正しく生きる方向を示す一筋の光として「天」の存在を心に感じる。多神教より一神教のが高級なイメージとして語られることも多いが、いやいやどうして。むしろ一神教のが人間の「原始」の信仰に近いと思うのだがどうだろう。