どっちもどっちの日本映画評

産経Webで日本をはじめアジアの映画を本国に配給しているイギリスの映画配給会社の人が*1

  「日本映画のレベルは本当に低い。最近すごく嫌いになってきたよ!」

  アダム氏は憤っていた。断っておくが、アダム氏は日本映画をこよなく愛している。だからこその“苦言”なのだろう。

  「アジア映画の中で韓国や中国とかが頑張っている。それに比べて日本はレベルがどんどん下がっている。

   以前はアジアの中で日本の評価が一番高かったけど、今では韓国、中国、台湾やタイなどにお株を奪われている。ちょっとやばいよ」

   (中略)

  「日本映画の大作、例えば『進撃の巨人』はアメリカのテレビドラマっぽくてすごくレベルが低い。何でみんな恥ずかしくないの?」と一刀両断。

あのな、私のウンコを指差して「汚い」「臭い」「恥ずかしくないの?」と言われても困る。関係者以外の全国民が恥ずかしいと思っている映画に対してこんなことを言われても困る。そこに気がつかないで「日本映画をこよなく愛している」と言われても「本当に愛しているの?」と聞きたくなる。製作委員会方式が問題だとかいろいろ書いてあるがこの人の意見を否定はしない。ただ、テレビでガンガン宣伝をしている映画がその時々の日本を代表する映画だとは日本人も思ってないことを、このイギリス人がわかっているのかが疑問。
これに対して映画関係者がすごく頭の悪い噛みつき方をした*2

  だいたい「今の日本映画はつまらない」とか「神目線」言う人間は、例えば予算のない現場で制作のスタッフがしょぼい弁当をリカバーするために

  必死で味噌汁作ってキャストやスタッフを盛り上げようする矜持すら知らない。俺はそんなやつらは一切信じない。勝手にほざいてろ。

この人は「矜持」という言葉が好きみたいだ。これに続くツイートは

  色々な@ツィートを頂いたので、補足、と言うとなんですが、もうちょっと書きますね。

  思うに、映画の現場というのは、様々なプロのスタッフの「矜持」に満ちていて、誰もが「いい映画」「面白い映画」を作ろうと必死で働いています。

  でも実際には、その映画が「面白い映画」になる確率はとても低い。

矜持という言葉が好きだが、使い方をまちがっている。この文脈なら「努力」とか「情熱」だ。少ない予算でがんばって作った映画に対してつまらないと言うなと主張をしているが、それが真っ当な意見なら企業の活動のたいていのことは賞賛されることではないのか。予算がないとか弁当がしょぼいとか味噌汁を作ったとかは、良い作品に対する裏話であって、良くない作品の言い訳にはならない。また後段の「必死で働いても面白い映画になる確率は低い」のは確率の問題ではなくて、必死で働いているつもりがどこか必死でない部分があって、それを「プロ」とか「矜持」という言葉でスタッフが見ない振りをしているからではないのか? 「クロユリ団地」も「貞子3D」も「劇場霊」も、その現場はプロのスタッフの矜持に満ちていたのだと思うよ。そして俺たちはプロだ、プロの俺たちが矜持に満ちて作った映画だから良い映画でないわけがない、これが面白い映画だと評価されないのは観客の見る目がないからだ、と思ったのだろうな。それでは面白い映画などできるわけがない。
私は30年以上のサラリーマン生活で数百人のプロに会ったが、こんなことを言うプロに会ったことはない。前の会社で花王の研究所に営業に行ったとき、担当がどう見ても出世と縁のなさそうなオヤジだった。その時点でこの訪問は絶対に失敗だと思ったのだが。その人に「花王さんがライバルと思っている会社ってどこですか? ライオンですか? P&Gですか?」と当時30代の私がアホな質問をしたら「ライバルは消費者です。消費者のみなさん全員が満足する、誰からも不満が出ない製品を作るのが私たちの仕事です。だからライバルは消費者なんですよ」とサラッと答えてひれ伏した。営業ならこのくらいのことを言うが研究所のこのオヤジの口から出たのにびっくりした。予算や時間がないことを言い訳にしない。努力の大きさを成果の小ささの言い訳にしない。それがプロではないのか。
話を映画に戻して、この人は予算がないと言うが、日本映画に限らずハリウッド映画もそうだが、つまらない映画は脚本がよくない。演出がよくない。予算の少なさよりも智恵の少なさで映画がつまらなくなる。そこんとこ、この人はわかっているのかな