行く先々で貫地谷しほり


石田ゆり子以外は誰が出ているのかも知らず、原作が良かったからというだけの理由で観に行った映画。観客動員ではかなり苦戦をしているとニュースで読んだ。苦戦の理由が石田ゆり子が脱がなかったからだと書いてあったが、これはそういう話じゃねえし。そもそも天童荒太の著作の中で、これは映像化に向かない作品だと思う。それほど話に抑揚がなく、その割りに人物造形がしっかりしていて2時間にまとめると薄っぺらくなってしまうのが最初からわかっている。石田ゆり子は生きることに疲れた人の役なので薄いやつれメイク。途中に土砂降りのシーンがあるのだが、水でやつれメイクが落ちて石田ゆり子の素の状態。肌がつやつやでいまでも20代の輝き。主人公の妹役が貫地谷しほりだ。なんか私が映画を見ると妻夫木聡貫地谷しほりにやたら出くわすなあ。
残念だったのがラスト。この原作、最後の3ページにすべてが詰まっているんだよね。癌のため死ぬ母親がその瞬間に息子がやっていたことの意味を知る。息子の行為は生者のためではなく死者のためのものなので死なないとわからないわけだ。母親はそこで初めて息子を理解し、息子がやっていたことの尊さを知り、その息子を持ったことを誇りながら死んでいくわけだ。それをなんで変える? もちろん原作どおりでないとイカンとは言わない。原作はあくまで題材にして映画では別のテーマを語ってもいいと思う。だが、ラストまで原作どおりに進行しながらなぜラストを変えるかなあ。私がこの映画を観たかったのがあの3ページがどういう映像表現になっているかなのに。これでは仮に石田ゆり子がすっぽんぽんになってM字開脚したとしてもダメでしょ。

タイトルをもうちょっと工夫できなかったのか? 内容はタイトルとポスターを見て想像したものとほとんど違ってない、ありがちな話。でもこの映画はガッキーあってこその作品だった。これは北川景子堀北真希ではダメだ。先生役なので生徒に囲まれるシーンが多いのだが、どんなシーンでも
     
どんなアングルでも
     
必ず顔が出る。本人は背が高いことを気にしているようだが、スクリーンでは背が高い人の方が絵になる。「ささらさや」はかなりの残念作だったが、この映画はガッキーのファンは必見だろ。あとこの映画がいいのは舞台が離島であること。離島は得だよ。海、空、坂。これがあれば素敵な映像になる。さらに生徒役の女の子がかわいい。Ακβ的な媚びたかわいさではなくて素朴なかわいさ。初めて見る顔ばかりだったが、主役がガッキークラスでないと負けてしまうだろう。話はラストの合唱コンクールに向けて進んでいき、いろいろ予定調和的に話がまとまっていくのだが、最後の最後にちょっとしたサプライズがあって、「あれはこの伏線だったのか」とちょっとびっくり。感動で胸が震える超大作というわけではないが、ファミレスで食べた新しいメニューが意外とおいしくてちょっと幸せな気分になったときのような佳作だと思う*1。そうそう、生徒役のリーダーの子が幼いときに死んだお母さんが石田ひかりでびっくりした。

*1:すげえややこしい比喩だ