真面目に性を考える(後編)

前編のおさらい。

  あなたが必要とするコミットを男性がするまで、ぜったいに身体を許してはならない。

  なぜなら男にとってセ○クスとはおしっこと同じだからだ

ここで言うコミットとは人によっていろいろあるだろう。わかりやすいのは結婚だが、それ以外にも自分の両親に会わせて二人の関係を二人だけのものからお互いの家族の共有物にしてしまうとか、生命保険の受取人を自分に書き換えさせるとか、帝国ホテルのレストランでディナーとか。「それではあまりにも打算的でしょう。愛はもっと純粋なものだわ」とお叱りを受けるかもしれない。そのとおり、愛は純粋なものだ。だが、私が言いたいのは

  男性にとって愛とセ○クスはまったくの別物

である。打算でセ○クスをするならまだいい。そこには理性がある。残念ながら男性にとってセ○クスはただの排泄行為、おしっこなので、そこにはまったく理性が介在してない。むしろセ○クス抜きで女性と付き合うこと、セ○クスなしで女性に奉仕することにこそ愛が必要である。
もちろん、女性の側もセ○クスを排泄行為とは言わないまでも、ある種のスポーツと割り切れるならそれでもいい。昔から「減るものじゃない」と言う。実際は減りはしないが増えるのだ。これが、カマキリのように行為が終わったら女性に喰われるとか、2分の1の確率で男性も妊娠するとか、せめて1週間はチ○チ○が腫れあがるとか、男性の側にもリスクがあるならいい。セ○クスによるあらゆるリスクはすべて女性の側にある。だからあらゆる決定権は女性が持っていていいのだ。愛とは関係なく、誰とでもセ○クスできる男性、しかもノーリスク。愛−少なくとも好意が無ければセ○クスしない女性、しかもリスキー。男女のセ○クスに関するこの極端な非対称性をよく考えた上で、若者は行動をして欲しい。男性はもっと女性を大事にして欲しい。君にとってはおしっこと同じでも、君が思っている以上に女性は君のことを大切に思っているのだ。
この事実を学校や女性週刊誌はきちんと啓蒙するべきである。だが、こんなことを学校で教えたら男子生徒の親が学校に怒鳴り込んで来るだろう。うちの子はそんな子じゃないと。良い悪いの問題ではなくて男女の脳の作りの問題なのだ。セ○クスをするために男女に配置された器官からしてその重要性の違いがわかるだろう。女性は新しい生命が生まれる神聖な場所を使う。だが、男はおしっこと同じ器官を使うのだ。なんたる失礼、なんという生命に対する冒涜。せめて別の器官が男性に備わっていれば女性と同じ気持ちになるのに。そんな器官があれば、1日1回、正座して粉をはたいて1点の曇りもないように磨くのに。それから女性週刊誌がこの事実を書くのも無理なのだろう。女性週刊誌は男が作っている。それに経済に対してマイナスのインパクトを与える。しかたない。私がリタイアしたら全国の学校を回ってこの話をしよう。これこそ真の性教育ではないか。初めのうちは教師からも親からも白い目で見られることだろう。学校に入れてくれなかったり、石を投げられたり。でもいつかわかる人が出てくるはずだ。そして私は

  セ○クス先生

と全国の女子生徒から呼ばれ慕われるはずだ。そのとき女房と娘は家を出て行くはずだ。
さて、このレポートの構想を練っていた先週、たまたま読んだ本にまさに私の論考を裏付けるような話があった。
  

パラドックスの悪魔

パラドックスの悪魔

  一般に雄は子どもを産ませるだけの役割なので、

  数多くの雌に種を植え付けることに邁進しようとします。

  他方、雌は多大なエネルギーをつかって子どもを産み育てる役割を

  果たさなければならないので丈夫な子どもを得たいと望んでいます。

  そのために健康で良い遺伝子を持った雄を慎重に選ぶことになります

すごいだろ。雄と雌がそれぞれ中庸を保つようにできているのではない。そもそも雄と雌は両極端なのだ。雄と雌の双方が慎重に相手を選んでしまうと子孫が減ってしまう。雄と雌の双方がやりまくると、できの悪い子孫ばかり増えてしまう。そこで数で勝負の雄と、質で勝負の雌を組み合わせることで均衡を保っているのだ。
わかっただろう、世の女性たちよ。もっと慎重に男を選びなさい。男があなたの身体を求めてあなたが拒んだために離れていったら、それはその程度の男だったということだ。「おまえは俺のことを愛してないのか?」と聞かれたら私の話を思い出して欲しい。男にとって愛とセ○クスは別物だ。このレポートを華子様に捧げます*1

*1:そこか!