手塚先生に捧げるACアダプター(前編)

先週、8月に読んだ本の感想を書いているときにふと思った。宮部みゆきの新作の帯や紹介文に「宮部みゆきの新境地!」「宮部みゆきの最高傑作!」とか書いてある。最高傑作かは好き好きだろうが、新境地であるのは疑いがない。およそ何年も第一線で書いている作家は3年とか5年に1回は「新境地」とか「最高傑作」という謳い文句の作品が出る。必ずしも新境地や最高傑作ではない作品も少なくないものの、ここには「過去の作品を超えたい」「過去の自分を超えたい」という理想とか志がある。その点については作品の出来不出来とは別の次元において評価されるべきである。
世界を席巻した日本のマンガ文化の礎を築いた手塚治虫石ノ森章太郎にも、この第一線の小説家と同じ理想と志があった。作風を変え、新しいテーマに挑み、鉄腕アトムサイボーグ009を超えること、自分自身が最大のライバルであった。そして多くの作品を生み出し、あまりの過酷な生涯故、いまの日本人の寿命と比べればあまりに早い死を迎える日まで片時も休むことなく走り続けた。この二人の絶筆となった「ネオ・ファウスト」や「ホテル」は、少なくとも「最高傑作」の候補たり得る作品である。
彼らが自分の命と引き替えに山を切り崩し谷を越え日本から世界に敷いた道路を、現代のマンガ家が走り抜ける。だが、ここで考えて欲しい。いまのマンガ家で複数の代表作を持っている作家が何人いるだろうか。大ヒットをして、単行本が繰り返し重刷され、アニメになり映画になりキャラクター商品になり巨万の富を手に入れると、そこから先が余生になってしまっているマンガ家がなんと多いことか。彼らはヒット作を超える作品を世に出すことも、過去の自分を超えようとする志も無い。
私はマンガが小説に比べて文化的水準が低いなどと思ったことは一度も無い。小説もマンガもアニメも、ものよってはゲームでさえも文学の一表現形式だと思っている。だが、それを生み出す作家の理想と志において、現代のマンガ家は小説家に比べて著しく劣ってないだろうか。もちろん小説というのは一発ヒットが出たくらいでは一生遊んで暮らせるほど儲からない。マンガは小説以上に「商業」であり、売れれば売れるほど作者にいろいろな成約が課せられるなど環境の違いはあろう。だが生涯に代表作がただ一作という作家人生、あまりに寂しくないのか。
とここまでは実は本題とあまり関係のない話だが、つづきはまた明日。