初恋・夏の記憶4

今回は土曜日だけあって10人くらい。なぜか年齢層がやたら高い。ほとんど40代から50代。華子様のファンの一大勢力である「お母さんのファン」なんだろうか。劇中での華子様のお母さん役の麻生祐未はさすがうまい。なんと表現すればいいのだろう。華子様が日本の海岸線を日本全図でなぞっているのに比べて、この人は5万分の1の地図でリアス式海岸の海岸線を正確になぞるようだ。たとえば、フラットな状態(0)から喜怒哀楽を50%つけて、またフラットに戻るまでの表情とか声の抑揚の変化のつけかたを数値化すると

  華子 00→10→20→30→40→50→40→30→20→10→00

  麻生 00→20→10→30→35→50→50→20→10→05→00

って感じ。こういう人が脇役にいて映画の質を維持していると、まだまだ未熟な華子様の演技も「若さ」とか「瑞々しさ」と評されるんだよね。これが若手の人気タレントばかりを集めちゃうチープなテレビドラマだと未熟さは「単調さ」や「平坦さ」になってしまう。
初回に見たとき「???」だったのが最後のシーン。夜の駅で「またね」と言って別れた華子様と少年。その後、場面はいきなり2年後に飛ぶ。少年にはけっして美少女と言えない彼女がいる。二人の帰り道、偶然に華子様と少年の共通の知人に会い、ある事実を知らされる。そのときの少年の驚きで、少年と華子様はあの駅で別れて以来、一度も会っていないのを観客は知ることになる。なぜだ?もちろん、そういうことにしないと少年が知った事実の大きさがうまく生きない。それにしてもここの不自然さが気になった。だが、4回目を見てから、この物語を少年の側から見直すと納得できたよ。
少年は中学3年生の15才。華子様演じる少女の年令は劇中では一度も語られないが、インタビューで華子様が言ってたのが17才。私から見れば2才の年令差など誤差の範囲だが、この年令の当人たちにしてみれば15才の少年と17才の少女の差は大きい。とくに女性のが早熟なので5才くらいの開きがある。もちろん高校2年生の女の子とつきあっている中学3年の男子はいるだろうが、この少年はそういう子ではない。それを頭に入れて劇の全体を俯瞰してみると、華子様が少年を恋愛の対象として見たことは一度も無いのがわかる。華子様が少年を誘ったのは、からかい半分の最初の1回だけで、以降はすべて少年のお父さん目当てだったわけだ。少年が自ら華子様を訪ねているのも華子様を慕ってではなく、自分の家庭を壊そうとする華子様に真実を確かめ糾弾するためだった。また、最後に海まで二人でいっしょに行ったのも、少年がお父さんの代わりに待ち合わせ場所に来たので、成り行きで同行しただけだ。
つまり華子様から見た少年は「近所の男の子」であり、少年から見た華子様は「困った人」であると同時に「自分の方を見てくれない手の届かぬ憧れの人」なのだ。だから偶然の結果として一緒に海に行った以降は、華子様は街で見かけたら声くらいかけるかもしれないが、少年は自分から連絡を取るに値する存在ではない。また少年も、華子様から連絡があったらうれしいが、自分からはとても連絡を取れるような相手ではない。
そう考えると、2年の間、二人が没交渉だったのは納得できる。と同時に、少年にとって華子様がどういう存在であったかを考えれば、この映画のタイトルが俄然、輝いてくる。15才の夏にほんの一瞬だけ少年の前に現れた華子様は、秋から冬へと連続していく存在ではなく、15才の夏に永遠に閉じ込められている思い出なのだ。そして、それ以上に発展しないことが宿命付けられているからこそ初恋なのである*1。第1回のレポで、この映画はカタルシスが無いと書いたが、そもそもカタルシスなど起きようが無いのだ。
華子様、よかったなあ、いい映画に出られて。観客動員数はたぶん500人にも達してないと思うが、この映画は女優・多岐川華子の財産だよ。この映画の主役を務め、演じきったことを、これからの華子様の人生の自信にして欲しい。でも華子様のことだから、この映画の存在自体をもう忘れちゃっているような気がする...

*1:あらすじを書いたことは1回もないから読んでいる人はまったくわからないだろうな