よく考えるとよくわからないニュース

最近、受け入れ先の病院が無く救急車がたらい回しにされるというニュースを見かける。昨日は拒食症の少女が亡くなったニュースがあったが、この一連のニュースの最初は難産の女性の受け入れ先を探している間に手遅れになってしまったニュースだったと思う。これ自体はたいへん痛ましいことであり、日本の救急医療の問題や減る一方の産婦人科医など考える点は多い。現に地元ではいちばん大きい、私の娘が生まれた病院もいつのまにか産科が無くなっていた。だが、それでも私はこのニュースがよくわからない。

  この人はどこの病院でお産をする予定になっていたのだ?

ふつう妊娠の可能性があると、要するに「来るはずのものが来ない」と近所の産婦人科医に行く。そこで妊娠が確定すると、以降は毎月1回の定期検診があり超音波で胎児の状態を見たり母親の健康管理が行なわれる。私の娘の場合は逆子であることが発覚したので「逆子体操」の指導を受けてお腹の中にいる娘をひっくり返した。そして臨月が近くなり、かかり付けの医院に手術の設備が無い場合は、病院の紹介状をもらい、以降は病院で定期検診を受ける。病院では臨月に合わせて受け入れ態勢が取られる。幸い私の娘の場合は、満期+1週間も母親の胎内にいたが、仮に早産だったらタクシーか、最悪の場合は救急車でその病院に行く。
これがふつうのお産じゃないのか。上記のプロセスの中には救急車がたらい回しになるような因子は無い。仮にこのプロセスを取っていても同様の事態になったら、責められるべきは救急車や受け入れを断わった病院ではなくて、かかりつけの医院や病院である。亡くなった方はお気の毒であり、この背景はわからないのでうっかりしたことは言えないが、もし私の想像どおりだとしたらこの問題は救急医療の問題以前に、お産をするにあたっての本人や家族のリスク管理の問題ではないだろうか。
こんなことを書くと「おまえは鬼か」「人が死んでるんだぞ」「遺族の気持ちになってみろ」と思うかもしれない。もちろん人の命は重い。だが、そこで思考を停止してしまったら、残された者は失われた命から何も学ばなかったことになってしまう。
もし経済的な問題で医者にかかれなかったのであれば、それは医療の問題ではなく福祉の問題に還元される。どんな事情だろうと患者を受け入れられるだけの医療体制を完備せよ、ということであれば、それは医療の問題ではなく社会資本の問題である。保険料や税金を3倍にして公立の病院をどんどん作り産科の医師の給料を5倍にして大量に採用すればよい。もし地域に産婦人科が圧倒的に不足しているのであれば卒業後5年間は地域の産婦人科で勤務することを条件に奨学金制度を設ければよい。
ここまで事態が切迫しているのか私はわからない。仮にそうだとしてもすぐにどうなるという問題ではないので、まずは妊娠した段階で主治医を見つけ定期検診を受けること。ふつうのお産で救急車や救急病院を使わないで、本当に生死がかかった人のために空けておく。これがお産の心得ではないだろうか。素人の私でもこの程度のことは考え、ブログ炎上覚悟で書いているのだからマスコミももう少し報道のありかたを考えろよ。国民はそれほどバカじゃない