事実と解釈

隣国ではいろいろな報道がなされている。

文大統領「日本の狙いは成功しない…経済により大きな被害警告」(中央日報日本語版)
韓経:「輸出規制『撤回』の言葉なかった」 日本の詭弁(中央日報日本語版)
韓国大信証券「日本の輸出規制、参議院選挙後に弱まる」(中央日報日本語版)
韓国外交部長官、アフリカ公館長会議で日本輸出規制関連の支持確保を強調(中央日報日本語版)
WTO理事会で「不当性」主張へ=日本の輸出規制で韓国政府(ソウル時事)
日本は無責任な主張はやめて「国際機関による調査」に応じるべき(ハンギョレ新聞)
ハ・テギョン議員「日本はイランなどに大量破壊兵器物資を密輸出」主張(ハンギョレ新聞)
日本は報復措置を拡大するのではなく、今からでも「ホワイト国」リストから除外する方針を撤回するべきだ(ハンギョレ新聞)

 これ、全部ピントが外れているんだけど。優遇措置を停止するだけなので輸出規制ではなく、WTOも関係ない。グリーン車に席を取ってあげていたのを普通車にしただけ。ファストパスを発行していたのを列に並ぶようになっただけ。乗車してはいかんとか、入園させないと言ってるわけではない。輸出規制ならWTOに提訴するのは有効な手段だろうが、前のようにまた優遇してよ、ということだからやることは日本との妥協点を探すこと。その中で引くところは引いて攻めるところは攻める。それが国益にかなった行動だと思うのだが、日頃から日本は自国より劣った悪の帝国だと言ってるもんだから、妥協点を探すなんてことは民意が許さない。正義は自国にあり、日本の悪を正す、この一点突破しかない。国益を追求すると国民に突き上げられる。民意に添うと国益を損なう。国益と民意が別の方向を向いている国の悲劇だが自業自得なので同情はできない。この国益と民意のベクトルを合わせるのは政治の力、その環境を作るのは教育とマスコミだが、そのどれもが狂っているので明るい未来は見えない。
最近、思うのだが隣国は主観と客観、あるいは事実と解釈の区別が無いのではないだろうか。一つの事実に対して複数の解釈が存在する。これはふつうにあることだ。Aの解釈だとその事実は「善」になり、Bの解釈だと「悪」になる。それも起こりえることだ。ただし、AでもBでも、それは解釈の違いであって事実は変わらない。ところがAであるには事実はこうであったに違いない、Bであるためには事実はこうなってないとおかしい。いつのまにか事実そのものが解釈に合わせて変わってしまう。Aの事実とBの事実の誕生だ。こうなると事実は解釈に取り込まれ、一切の評価や検証ができなくなる。

例として隣国の法律には法治国家ならどこにもある「法の不遡及の原則」が無い。ある法律が施行されて、ある行為が違法になったとする。そのとき違法になるのはその法律が施行された後に限定され、施行前の違法行為は不問になる。そりゃそうだろう。いまから10年後にタバコを吸ったら死刑という法律ができたとする。そのとき5年前にタバコを吸ってた人や10年前にタバコを吸ってた人は罪に問われない。そうしないといま自分がやっているあらゆる行為が将来には違法になる可能性があり、自分が罪人になる可能性が誰にでもある。事実というのは過去、解釈は現在。現在の解釈に過去の事実が取り込まれるならば、この遡及法が隣国では成立してしまうのも自然な流れだ。

同じように国家間の条約や合意も過去のことであるから、現在の解釈では不当であると判断するならいつでも破棄できる。条約の締結という事実より、現在の解釈のが優先されるからだ。そうなるとあらゆる契約や約束は過去のことなのでまったく意味がない。つまり隣国は現在の解釈以外のものには意味や価値を持たない国民性なので、誠意がないとか、嘘つきとか非難をしてはならない。そういう思考回路なのだ。ただ、そんな国とこれからどんなパートナーシップを結び、優遇措置を与えられるのか。非常に難しい、というか不可能に思う。